古伊万里窯の発展と衰退

古伊万里窯の発展と衰退

以前、「日本の古伊万里って?」という記事を書きました。今回はより深くやりたいと思っています。
以前も書きましたが、1600年代の日本には色絵磁器を焼く技術がありませんでした。
正確には評価されていなかっただけだったのかもしれません。
そのため、織部焼や唐津焼の鉄絵を焼く技術などがありました。

愛知県陶磁美術館収蔵    黒織部茶碗

東京国立博物館収蔵     織部獅子紐香炉

東洋陶磁文化会館収蔵  型紙摺唐花唐草文大皿(二彩手)

では、なぜ中国と日本で磁器を焼くのにここまで差が開いたのか?ここら辺はまた長くなってしまいますので次回改めてやりたいと思う。

初期伊万里時代(1620~)

天狗谷窯という窯場が始まりでした。
以前、記事にしたが、色絵磁器を焼く技術が無く福建窯系統の民窯の技術を応用したと書きました。最初は技術が未熟だったので白磁、染付、青磁、などの単色の物が特徴的である。

青磁六角皿        今右衛門ミュージアム収蔵

初期伊万里 染付柳文茶碗   今右衛門ミュージアム収蔵

染付月兎文皿(陶片)   今右衛門ミュージアム収蔵

1/2高台も初期伊万里の特徴であり、これはまだ技術が未熟なため高台を高くしないと底が割れてしまうのでこのような作りになっている。

初期伊万里「初期色絵」(1640~)

次第に技術が向上するに色絵磁器を焼けるようになった。柿右衛門様式や古九谷様式などもこの頃から誕生した。
話は多少ずれるが古九谷は以前は石川県(加賀藩)独自の焼物とされていたが、九谷焼の陶片が見つかったため、伊万里の窯と何らかの関わりがあったとされている。楠木谷窯という窯場で作られたとされていて。高台裏に承応弐歳と書かれた九谷様式の陶片が発見されている。

色絵菊鳥文輪花皿         東洋陶磁文化会館収蔵

柿右衛門様式が誕生したのもこの頃からで、当時は南京手、祥瑞手、五彩手と呼ばれる物である。

色絵甕割唐子文八角皿          東洋陶磁文化会館収蔵

色絵碁盤童子置物               九州陶磁文化会館

また柿右衛門様式や九谷様式には藍色だけを使用した藍九谷、藍柿衛門などもある。

染付唐獅子牡丹文菱形皿         東洋陶磁文化会館収蔵

染付竹虎文皿            東洋陶磁文化会館収蔵

ここら辺は日本の古陶磁としてもある程度評価が高い。
1650年代には京焼の名工野々村仁清が活躍しており、仁清手と呼ばれる写しも作られた。

色絵桜花文瓢形瓶(仁清手)     東洋陶磁文化会館収蔵

輸出手伊万里「盛期伊万里」(1650~)

元禄期に入ると古伊万里は最盛期を迎える。そもそも古伊万里窯が発展することが出来たのか?前回も書きましたが、前回古伊万里と鍋島藩との関係について多少触れたが、古伊万里窯群は鍋島藩の管轄でした。諸藩や豪商の贈呈用、日用雑器としての日本全国の輸出を目指していた。そのため陶磁器の品質は徐々に向上していった。分業制度が確立したのも鍋島藩で、 その他の地方焼は半士半農で冬や農作物が作れない状況の足しとして陶磁器を作っていたため、陶磁器をしっかり作れる体制ではなかった。九州地方は陶石に恵まれていたことも大きかった。

交易が盛んに行われていたため、作られた陶磁器を輸出する際もとても有利でした。
元々アジア向けの陶磁器の輸出は1640年代からあった。ここでは九谷様式や唐津焼、初期色絵様式の陶片などだ。ここでは鑑賞する物ではなく日用品としての雑器がほとんどだった。西欧向け(オランダ向け)に陶磁器を輸出し始めたのが1660~1710年代と考えられている。

元々は中国陶磁器の輸出販路だったが「古染付と新渡染付」で触れたように万暦帝以降明の治世以降は特に酷く、度重なる飢饉や重税、諸民族の度重なる侵攻によって明の陶工達は陶磁器を焼ける譲許ではなくなった。そのためオランダ東インド会社は陶磁器の輸入先を新しく白羽の矢が立ったのが日本の古伊万里でした。

陶磁器を大きい家を飾るのに目立つ、赤絵の具や金襴手を派手に使った物いわゆる古伊万里様式が誕生した。

色絵紫陽花菊牡丹文蓋付大壺     東洋陶磁文化会館収蔵

しかし、西欧への陶磁器の輸出はそう長く続きませんでした。1669年に清の皇帝康熙帝が親政を開始、1684年には鄭政権が滅亡して中国の治世が安定してくると陶工が戻ってくるようなります。またこの康熙帝もアジアでも指折りの名君で西欧の技術を積極的に取り入れました。
新しく粉彩という技法が誕生しました。東洋陶磁史において大きく発展していきました。

康熙帝 肖像画

倣古伊万里  五彩山水文大皿       東京国立博物館収蔵

康熙窯 琺瑯彩地牡丹花 国立故宮博物院収蔵

しかも、これを伊万里の半値で売り買いされたのだから日本の伊万里は大打撃を受けた。

後期古伊万里①(1710~)

1710年代になると海外から陶磁器の発注は激減しました。しかし国内においては高いシェアを保ち続けた。その需要は将軍家や豪商、公家などの贈呈用磁器などもある。
また、1640年代以降になると庶民の生活も豊かになり始めそれまで木の器などが主だったが陶磁器を利用するようになる。そのため、食らわんか手の波佐見焼が登場する。コニャック紋などが有名です。また1750年代にはそば猪口が登場します。

くらわんか手 大衆用雑器

そば猪口

後期古伊万里②(1800~)

1800年代江戸時代も後半に入る、11代将軍徳川家斉、老中水野忠邦の時代である。
この頃になると天保の改革が推し進められ、贅沢品は禁じられたため染付などの単色の物が増えた。

文政11年(1828)には台風により古伊万里の主要な窯場が集まっていた皿山は大火におおわれる。そのため伊万里の陶工たちは諸藩に散らばり古伊万里の窯場は打撃を受けた。
それでも鍋島藩の積極的な支援の下、天保年間に入ると再び活気を取り戻した。
日本地図や世界地図を描いた古伊万里はこの頃に誕生した。陽刻の模様などの技術が生かされた作品が多い。

五三次図皿             東京国立博物館収蔵

青磁鶴亀文皿            東京国立博物館収蔵

幕末・明治

幕末から明治期に入ると海外から人工のコバルトや色絵が入ってきた。そのため発色がよく鮮やかな物が多い。また鍋島藩の解散と共に古伊万里陶工も各地に散らばり、瀬戸、九谷、会津などに散らばり、古伊万里の技術は各地へ広がっていった。

古伊万里全般の魅力

古伊万里の魅力は何といっても多種多様な模様と価格帯である。
初期伊万里でも高くてもせいぜい30~40万前後です。また、1680年代頃の藍柿、藍九谷などの物(美術館や博物館に同種の物以外は除く)でしたら6万前後です。一番安くて食器として楽しみたいという場合は幕末期の物が一番良いと思います。

食器としての古伊万里

古伊万里を食器として楽し目ると書きましたが、おすすめの物をいくつか紹介いたします。
まずは志田窯という江戸後期頃から多種多様な染付皿を制作していた窯です。
風景や動物、寿老人などを染付で描かれた物が多く、その自由な描写は使っていても楽しめます。

染付皿ではさみしいと思う方は、色絵皿も豊富に作られています。有名な所だと大聖寺藩で作られた、大聖寺伊万里というのがおすすめです。この九谷焼で有名な加賀藩の支藩である大聖藩が作った物です。加賀藩は再興九谷でも有名です。
大聖寺伊万里の特徴は元禄伊万里や盛期鍋島などの見事な写しです。その写しは見事で元禄伊万里と交じっていても気づかれないこともありました。

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